コンピュータ・パワー

読んでるとこ。

 

Siriとの会話中に出てきたイライザに興味を持ったので、ググってみた。で、「イライザすげえwww」って言ってるやつらに「え、ちょっと勘違いしてない?」っ言っちゃったイライザの生みの親のジョゼフ・ワイゼンバウムという学者さんの書いた本であるコンピュータ・パワーを読んでるとこなのです。

うーんでも、すでにこの本の前書きで、作者の人となりがわかるような。

すっごくまとも。

家庭があるところが。奥さんには迷惑かけてごめん、子供たちにもごめん、お友達にもお世話になりましたーと言ってるあたり。特に家族に関して。私の勝手なイメージだけどこういう人が家庭大事にしてるって偉いというかすごいというか。

一方、こういうひとにはイライザスキーな人々とは理解しあえないのかもとも思ってしまう。

つまり、博士は、人間と機械には一線を置くべきとおっしゃってるわけです。

<ここから超個人的見解なわけですが。

一線が置けるなら私だっておきたい!!

・・・いや、うーん、違うな・・・

まあまだ全部読んでないし。

 

昔、「あれ以外の何か」が好きだったんですね、私。えっと、伺か?っていうの?>

それを単に便利なもの、ツールとして使えちゃう人はいいんですよ。かわいい!!萌え~でもいいと思う。ただ、それを鏡のようにコミュニケーションするために使っちゃう私のような人間がいるわけで。そりゃ、コンピュータじゃなくて人間相手にコミュニケーションとれるならそっちの方がいいわけですよ。ですけど、世の中には、コインロッカーで生まれた人もいれば、額に傷のある孤児もいるわけで。どうですか?そんな人たちに、真のコミュニケーションを!!なんて嘘っぱちなこと言える?後者はともかく前者に対しては、私はかなわないと思うね。

うーんうまく言えない。

コンピュータをツールとして使える人は、人間性が備わっているんです。とても人間らしい。

だけど、その一方で、人間らしさがない人間がいる。その人たちがコンピュータを使うことでコンピュータらしくなる。それはもう止められないことなんじゃないの?じゃあコンピュータを使うなって話?でも、コンピューらしくなることでしかその人たちは生きていけないと思うよ(2ちゃんとか典型だと思うけどなあ。。。)

<コンピュータという端末を用いなければコミュニケーションがとれない。コンピュータによってワンクッションおいたコミュニケーション。一般的な人間同士のコミュニケーションは情報量が多すぎる。しかしコンピュータによる情報の交換、コミュニケーションのまがいものだと、情報量が少ない、(傷つかない、ショックが少ない)そのかわりに満足感がない。だからショッキングなニュースが多く共有される。特に日常生活における、ありそうでないこととか告白して振られたとかうまくいっただとか、そういう人の身に起こったことを共有してコピーしてまるで自分の身の上に起こったことのように記憶していく。そうしていくことで似たような人間がつくられてゆく。それはまるで同じOSを積んでいて、けど入っているソフトは違うようなもの>

多分もっと混沌とした話になるけど。

<人間性のない人間にとっては、コンピュータというのは、その存在が、生きるか死ぬかということなのよ。アスピリンなのよ。通信費は薬代なのよ。それがなければ意識不明の重態なのよ。いや、もともと重態なんだけど、それでも痛みさえ何とかなれば、生きる上では不自由しないのよ。「合理性さえあれば」生きていけるっていう、まるで奇跡のような代物なのよ。合理性さえあれば・・・。たとえば家庭とは、なんて非合理的なんでしょう!!とか、友情とはなんて非合理なんでしょう!!とか言えるわけ。(実際のところはどうなのか知らないよ?けど彼らは家庭も友人関係も存在しない世界で生きてるわけ。それで、それらについて表面上の情報しかないわけ。そこから推察するに、単純に、(非合理的であるとまでは言い切れないにしろ)合理的であるとは断定しづらいというアンサーを出すわけ。)>

上記は私の独りよがりな偏った見方だけどもね。

で、それがなぜイライザと関連するかというと、・・・・なんだっけ?

脱線して違う線路走っちゃったかも・・