姉の結婚を読んで思うこと。

あ~わかるわかる~。

ストーカーの何が怖いのか。怖いというよりびっくりする。それで、つい反射で、今までの生活を守ろうとしちゃうのです。通学中の電車とかで、違う学年の人に何も言われぬままメアド渡されそのままダッシュで逃走されたりされれば、まず、いつから?と思うわけです。いつから私のことを知っていたのか、いやいつから同じ電車に乗っていたのか、今日はじめて見て一目ぼれしたのかそれとも数か月前からなのか。私はたいして美人ではないのでこういうことはそう多くはないのですが笑、それでも短い人生(20数年)のなかで何件かあるわけで、う~ん・・・学生時代ならまあいいんだけど、社会人になってからだと正直もうやってらんないよね、と、激しくヨリさんに同意するわけです。

 

おとこの一生との違いとしては、ほら、四葉で海江田先生が講演会するシーンがあるじゃないですか。そのシーンでつぐみさんが感動してましたよね。あれが、かな~り大きい。あれがないと海江田先生は結婚できてない笑。つぐみさんにしろヨリさんにしろ、女性としての魅力はあるわけです。そして男性的な魅力ある人とお付き合いしている。ただ、人間的な魅力とは性別的な魅力(女らしさ男らしさ、外見など)プラス人としての魅力(知性とか、仕事とか、性格とか)なわけで。そこらへん、ですよね。問題は。不倫できるひとは、男性的な魅力とか表層的な面はそこそこいけてるけど、肝心の中身がちょっとアレなわけですよ。

男の人はどんどん女の人とお付き合いすればいいよ。多くの女の人とお付き合いできるひとは、男性として魅力的なわけだからね。わかりやすくてっとりばやい指標である。

けど女の人はね、やめといたほうがいい。恋愛はしてもいいけど、片思いくらいがちょうどいい。何度も付き合って何度も別れるとヨリさんつぐみさんコースをたどることになるから。付き合っても破局が前提のお付き合い、というのかな~。何度も「別れるに値する女」というラベルを張られるわけだから。女の人の恋愛が上書き保存なのは、そのへんに理由があるんじゃなかろうか。

 

ヨリさんがお見合いして結婚しようとしたのもよくわかる。母にせかされ、母方の祖母にはいろいろ(本当にいろいろ。顔を見るたびにそのことについて言及される)言われ、事ここに至っては父方の祖母からも「まぁーだかなぁ?」とかくれんぼの鬼のごとく母の口を借りて言われてる身の上なので気持ちは痛いほどわかる。(でも不倫してたっぽいヨリさんが結婚したいというのはどうなのだろうとは思うが。さすがにそれは経験したことないのでわからない。)結婚に恋愛がついてこないというのは、うん、それはそれでいいのかもしれない。夫婦がお互いを尊重しあうことができそうだから。恋愛だと、やっぱり距離感とか大事にできないし。夫婦は身内であって、しかし一番近い他人ですから、そこらへんがね。夫婦でもプライベートはあるわけで。うーんうまく言えない笑。あんねー、つまり、依存ではなく、支えあうのが夫婦なんです。で、恋愛だと依存関係でもいいんだけど、それって本当はよくないことなんです。で、依存ではなく支えあう関係を築こうと思ったときに必要なのが相手への距離感だったり尊敬の念だったりするのです。それが、恋愛関係だと距離感とか考えずに、ただやみくもに好き好きオーラで詰め寄ってきて依存関係まっしぐらか破局になるわけだけど、恋愛抜きで結婚した場合、お互いに対して距離感があるわけです。遠慮がある。だから、意外と何事もスムーズにゆく、と、そういう感じです。

まっとうな恋愛をして結婚したい派の人間です、私は。けれどもヨリさんの心境はよくわかる。結婚結婚結婚。

(後日追記するかも)

著作権がない国~イスラーム電子文献利用について

ゼミにて。さらっと先生が言った一言。

 

え、著作権がない国なんてあるの?

と思って調べたら、確かに中東はグレーやなぁ。というか本が安いよね(らしい。ある先生は現地で本を買うときキログラム単位で購入してたとかなんとかおっしゃっていたような気もする。イラン、つまりシーア派の先生も、英語のペルシア語辞典のほうが安いからってアマゾンで買ったとかいってはったしなあ。そのへんも関係する?でもCDやらなんやらの値段も北米版のほうが安かったりするし一概には言えないかな)

いや、授業で先生がお書きになった論文を読んでくるっていう課題が出てて、講義中に感想聞かれて、それで正直に、最後のイスラーム電子文献利用についての注釈が気になるって話したらハルフ社のホームページまで見せてくれた。聞いてみるものである。

ざっくり言えば、ハルフ社の電子図書館を使えば、大体の文献はそろうらしい。が、しかしこれ、ほぼオールアラビア語で書かれているのである。そのためアラビア語の読めない日本人の研究者は使えないよね~ということらしい。なかなかしっかり監修されていて信頼できるものだそうだ。

さらに言うと、有名かつ大量の巻数が出ている著作をPDFにしてネットでアップしてくれている「親切な人」がいるらしい。なんじゃそりゃ。

う~ん、まあ著作権なんて長くてもたかが100年程度だしなあ。イスラムの歴史の長さから考えると・・・著作権なんてあってもないようなものなのかもしれんなあ。主要な議論なんてもう出尽くした後だろうし。(イスラム金融とかは別としても)

てか、某先生のオープンアクセスについてのやつ(人社系オープンアクセスの現在)

とやらで、歴史学の先生が、現物に当たりたがる学者が多い~みたいな話をされていたらしいが、ゼミの先生の話(電子図書館超便利)を聞くと、なんだか自己満足に聞こえるというか。「現物にあたる自分カッコイイっ!」みたいなのがあるんじゃなかろうか。

あ、そうそう。高校の先輩で日本史やってる人が、社会学とかしょうもないやん!!とか言ってきて「?」となったことがある。司書課程は社会学部のなかにあるし~。先輩図書館使うよね?とか言いたくなったがやめた。うーん自分のやってる学問が本当に好きなんだろうけどちょっとナンセンスかな~と。

 

ゼミ発表では、できればバーキルサドルのイスラム哲学を使いたいなあ。あれ読めたら大学で頑張った!!って感じがするし。そんな気がする今日の僕。(ちなみに同作者のイスラム経済は20ページくらいで挫折しました・・・とほほ)

追記:経済学で話聞くなら比較経済の田畑先生がいいなあと思います。個人的に。授業が面白かったので。オープンアクセスかあ。そもそも図書館情報学のひとって他学部の授業ちゃんと受けてるのかしら?そのへんがわかんないわ。

 

同校は同好。

近況:アセンブラがわからないです、助けてください。

 

高校時代は共通の趣味のある友達なんて作ろうと思わなくても作れちゃった奇跡の時代でした。みんなで銀英伝を読み、ギアスやガンダムを視聴し、ラノベを読み、日本語で会話を楽しんでいたわけであります。それが、大学に入れば、一転、BLもない腐女子もいない、なんともクリーンな世界が広がっていたわけです。恐怖です。

女の子は髪の毛をまきまきし、コーチやらグッチやらのお鞄を引っ提げて登校です。どこで呼吸すればいいのかわからないまま、なんとか神学部バリアによって自生圏を獲得し、数は激減したもののヘタリアという共通言語を解する人々と出会い、此処までいきてきたわけであります。

 

しかし、時の流れは恐ろしい。

気が付けばそういった類の友人とは共通の授業を取らなければ出会わないという自明すぎて会話の端にすら登らないレベルの事態に気が付き、気が付き終わったところで現実は変わらぬまま。というかそもそも話が合わなかったのよね。大学の人とは。

おとこの一生がわかる先輩がいるくらいかー。できたら銀英伝とか、嶽本のばらの小説とか、ざっくりとした方向性が似通っている人と話したいなとか思ってしまう。高校時代はそんなこと気にも留めなかった。友人は皆ガンダムやギアスを観ているものとして会話が成立していたのだ。それがこのざまである。だれもされ竜のことを知らないのである。浅井ラボとか、絶対、口に出さないのである。会話の流れがそちらに行かないのである。それは司書でも相変わらず。最近一番私の心の琴線に触れた会話と言えば、弟からポート解放について尋ねられた時だろう。

 

高校のころは感じなかった漠然とした不安感。受験勉強とは違う、もやのようななにかが、しょーもない孤独感に拍車をかける。ああ、十二国記読みたい。

話を聞いていて面白いのは先生くらいのもんである。

 

折角の大学生活である。夜を徹して飲み語り合いたいのである。同じ気持ちの人はいないだろうか。京都で孤独に大学で埋もれてゆく運命に抗おうという、私と読書傾向が似通っている、そして同志社にお住まいの方!!愛が欲しい。連絡が欲しい。運命の出会いがほしい・・・いや、私は決して出会い厨ではない。(なんか文章が森見登美彦っぽい気がする。ちなみに私は恋文の技術が好きです。)

 

司書課程なんか来るやつは本の虫かと思いきやそうでもないらしい。一部の女子生徒に聞いたところによると、結婚後、パートで図書館で働けたらいいな~程度の気持ち(複数名)、書店で働きたいから取っとく、など。皆そんなものである。もちろん、母上から、資格取っとけの一言で急遽3回生から司書課程受講、春学期は週六で大学に通うはめになった私も、彼女たちに対して大きな顔はできまい。ていうかすみません。

 

ああ、こんな文章を書く暇があるのならアセンブラやら基本情報の過去問やらをやれ、と己に言ってやりたい。でも、本当に、誰かいませんか・・・・。

 

追記:前書いた記事がまるっと無くなってたんだけど、どこにいったのでせうね。